タイムカプセル

解夏」の中にタイムカプセルに関する話があって、「子どもはタイムカプセルだ」という主題が気になって仕方がないのでメモ。子どもがタイムカプセルであることには、ほぼ全面的に同意する。親になって良かったと思っているから、そう思えるという話かもしれないけど。自分が親のタイムカプセルだ、という考え方は馴染まないけど、でも、きっとそうなんだろうな……。
そもそもタイムカプセルなんて、埋めたものそのものは大事じゃないと思う。もちろん大事なものを埋めてはじめて意味があるんだけど、本当にそこに封入されているのは思い出等の無形の付加物で、何年後にそこから何が出てきても、でてきたそれそのものは思い出の形代に過ぎない。現金でも埋めておけば話は違うかもしれないけど、それは多分タイムカプセルじゃないし。
逆に言えば掘り返すまでもなく、何かが埋まっている事実そのものが思い出の形代かもしれない。この理論を広げていくとタイムカプセルなんて形じゃなくても、育った場所や育ててくれたひと、そんな流動的なものだってタイムカプセル=形代となりうる。ただ、流動的なものは形代としては不確かだから、時間を固定するためにタイムカプセルを埋めるんだろう。ユーミンの卒業写真、自分は変わるくせにあなたは変わらないで、と願う気持ちのように。
一時期、タイムカプセルに強くあこがれていた。自分の書いたものを残しておきたい、おかなければいけないと思っていた。たぶん反動で就職をきっかけに捨てたけれど、今でもたまに思い出して複雑な気持ちになる。きっと残しておいてもいずれは捨てたものだ。それに、もし残っていたとして、読み返す価値のあるものなんてなかったかもしれない。でも、そこには割り切れない気持ちがある。
そんなときに考える。「いちばんの形代は自分そのものだ」。僕が通過してきた時間は、全部僕の中に残っているじゃないか。ただ、自分は変わるものだから、しかも自分はそれをリアルタイムに体験しているから、形代としては不確かなだけで。
タイムカプセルの効用は、たぶんふたつある。

  1. 時間を自分の過去に戻す。
  2. 現在との差分を考えさせる。

過去に戻すだけでは足りなくて、現在の自分との相同・相違を考えさせるのがタイムカプセルだと思う。まったく、子どもはタイムカプセルだ。ときどき自分みたいで、配偶者みたいで、しかもどちらとも違う。おまけに、似ている顔がいつ出てくるか分からない。<It kills me.>という気持ち、「まいっちゃうよな」というのが一般的な訳だと思うけど、なんか英語の方が気持ちの表現として近いので英語で書いておきます。まったく、殺されちゃうよなあ。