本日付中日新聞一面で「なによりも大切なもの」と見出しをつけて紹介された今年の漢字「命」。今年、親になった身には染みる字だけれど、「なによりも大切」と手放しで言われると、ちょっと待ってよ、と思う。殺してはいけません、死んではいけません。もちろんそれはそうなんだけど、命の大切さって、そういうものだけではないんじゃないか。
命をかけてでもしたいことがあるなら、それは命をかけてでもすればいいじゃないか、と僕は思う。命を失っても悔いがないくらいしたいことがある方が、ただ殺さず殺されずに生きるだけより素敵じゃないか。あるいは、自分の尊厳のために命を捨てることを否定するのって、そんな簡単にしていいことなのか。
「人間の社会には思想の潮流が二つあるんだ。命以上の価値が存在する、という説と、命に勝るものはない、という説とだ。」(田中芳樹銀河英雄伝説」より、ヤン・ウェンリーの台詞)
いずれにしても、それを決めるのは本人であってほしい、というのが僕の希望で、このエントリ前半で主張したいのはそれだけだ。自己決定ができるように育って欲しいし、そう育てるのが教育の目的じゃないか、と思う。他人の命を勝手に使っては駄目だし、逆に、勝手に使われては駄目だ。
ちなみに後半で主張するのはまったく逆に、命の価値なんてお前が決めるな、ということについて書く。
ここから後半。誰の役にも立たなくても迷惑をかけるだけの存在になっても生きる意味はあるか、という問題がある。生きることには意味なんかない、と言ってしまえばそれまでの話だけど、心情的にはそんなに簡単なものでもないだろう。僕としては、逆に「役に立たない」「迷惑をかける」という意味があるじゃないか、という形で落ち着きたい。意味なんてどこにでもある。探さなくても、存在していることが意味がある証拠だ。あなたの存在は、あなたにとっては意味がないかもしれない。でも、僕は、あなたの都合なんて知ったことじゃない。
たとえば高齢者が愚痴で言いそうなこと。「こんな年寄りは何の役にも立たなくて」云々。そこで、今まで頑張ったご褒美だ、といえば今のそのひとの存在を否定することになる。そうではなくて、役に立たなくて迷惑をかける存在として、多様性の一部として存在していいと僕は思う。そうでなければ存在しない方がいいってことになる。もちろん役に立たないし迷惑だろう。でも、多様性はそれだけで価値だ。だから、どんなひとでも存在する意味がある。あなたの存在には価値があるんだ。
もちろん本人がそれではいやだと思えば、それは本人の自由だ。向上心を持つのはいいことだと思う。でも、いやだと思って絶望するにはあたらない。とにかくひとが存在していることは、存在しているという意味があるのだから。みんな愛されて生まれてきた、というと偽善っぽくて好きじゃない。憎まれっ子は憎まれっ子として、目立たない子は目立たない子のままで存在していいと僕は思う。それを愛と呼ぶのかもしれないけど。