ちょっと気取ったことを書く。春の陽気のせいだと読み飛ばしてもらえれば幸い。
娘たちのことについて。昨日、妻の親族から段ボール一箱分の子供服をいただいた。また、おそらく僕のMOTTAINAIだかMENDOKUSAIだか精神に則って、次女は長女のお下がりをたくさん着ることになると思う。二人目以降の子どもはお下がりばっかり着せられて嫌だった思い出を語るものだと聞くけれども、さて、うちの娘たちはいずれ何を言うやら。まだ口をきかないから、先に親の言い分を書いておこう。
親の立場として一般的な意見なのかどうかは分からない。でも僕は長女が着た服を次女が着ているのを見るのは嬉しい。長女がそれを使って育ったものを使って次女も育っていく、子育てってそういうものだと思う。それは長女が育ったように次女にも育って欲しいという祈りに裏打ちされている。ある種の呪術的行為(おまじない)だ、たぶん。僕がしたいのは歴史を作ることであって、ただのMOTTAINAIとかMENDOKUSAIではないぞ。
子育ての本質は繰り返しにある。アルバムの妻の顔と娘の顔が似ていると嬉しい。この頃、長女は僕の妹に似てきたような気がする。嬉しい。子育てって、そういう「嬉しい」を積み重ねていくことだ。僕の怒った口調を覚えて真似されて哀しいとか、そういうのも積み重なるんだけど。お下がりを着せるのは、僕が育てられたように娘を育てていこうと思うのと同じ祈りだろう。育つなんてそもそも奇跡みたいなものだ。僕たちはみんな奇跡の結果だ。僕の母が祖母から育てられたように僕を育て、母が僕を育てたように娘が育っていく、そういう繰り返しを肯定できなければ子育てなんてできない。同じチームならみんな同じユニフォームを着て試合をするように、毎年同じたすきをつないで駅伝を走るように。たぶん僕は長女にもお古を着せるし、次女にお下がりを着せると思う。まあ大きくなってから文句を言うなら言うがいいさ。そのときは、もちろんこんな恥ずかしい反論はしないだろうけれども。